昭和44年11月24日 夜の御理解
中村良一
お父様に当たられる方の御霊様の、おたち日で、御礼を申しあげてくれという、前々から、お届けがあっておりましたから、今晩は、それをあわせて、ね。御霊様にご挨拶させていただいた訳です。御霊様に、ご挨拶をさせて頂いておりましたら、私のあの、御神願にね、あの、まぁ私は、石炭の坑内に入った事はないけれども、坑内と思われる、その壁が、いわゆるこう、石炭の山に向って、一生懸命、こうツルハシを振るっておるところを頂くんです。御霊ながらに、一生懸命、ご修行があっておるところだと、こう思いました。しかもあの、お取次ぎを頂いて、信心の事が少しずつ分かってお出でられて、ツルハシと言うのは、私は、お取次ぎを頂いておられるという意味だと思いますね。ね。いわゆるあの、ここへ明かりをつけておられる。これは、御霊様自信が持っておられる光と思うですね。石炭の山と言うのは、私は、苦労とこう思うですね。苦労は、苦労とは、私共は頂く。苦労は、修行として頂く訳です。しかもそれは、自他共の助かりのことのために、あのご修行くださっておるという感じでございますね。
実はその、修行という事なんですけれども、今日、私、午前中に、今日、なんかしら、とっても疲れておりました。それでもやっぱり、まぁ一生懸命、辛抱させていただいてから、お昼まで奉仕させて頂いたんですけれども。ちょうど、もう、その時分に、公子さんが、御神米入れを頂いたから、これに、この御神米入れを大事にさせて頂きたいと思うから、これに、何か一つ、お書き下げを頂きたいと言うて、これを持ってまいりました。それで、私、疲れておるから、ほんなら、これは後から頂こうと言うて、私はもう、下って、そして、四時の御祈念に、ちょうど少し、早めに出てまいりましてね。それから神様に、その事を、改めてお願いさせて頂いた。そしたらね、頂きますことがね、私は、本当にあの、そうだなぁと思ったんです。それは、どういう事を頂くかというとですね。これ、公子さんの場合だけじゃないのですけれども、日々、修行の稽古と頂く、修行の稽古と頂くんですよね。ね。信心の稽古という言葉は、沢山、何時も使いますけれども。信心の稽古、信心の稽古と言ったって、一つも、信心の稽古になりよらんのです。その証拠に、それが、例えて言うなら、おかげにもお徳にもなって行きよらんじゃないかと。
例えて、まぁ申しますなら、ね。だから、それでは、なるほど、こう身近に、信心の稽古と言うことは、結局、私共は、修行の稽古をさせて頂くんです、日々。素晴らしいことだな、これは合楽に、またこういう言葉が、一つ増えたねと言うてから、末永さんと二人で、これを頂いた時に、お話をしたことです。ね。お互いが、日々ね、修行の稽古をさせて頂くんですよと。それにはね、ほんなら、私共が、これは、私の場合を申しますと、例えば、私の師匠筋に当たります、善導寺、または久留米、福岡、小倉と。いわゆる、まぁお徳を受けられた先生方ばかりが、私の信心の、いわゆる先達であります。手続きの親でもあります。その先生方が、それぞれに、まぁ独特のご修行をなさって、あのようなお徳を受けられたんですから。これは、私共でもね、人間ですから、桂先生がなさった修行を、自分が出来んちいう事はない。まぁ、こういう考え方だったんです、私は。ですから、桂先生のなさった修行も、真似方させてもらうし。福岡の吉木先生、そして石橋先生、そして、三井教会の荒巻先生のご修行くださった、そのご修行の後というものを、まぁ真似方ながら、辿らせて頂いておりますね。それを、現在続けておるわけじゃないけれども、そういう修行を持って、身をもって、様々な修行をさせてもらう。それが、一つ一つ、修行の稽古ですから、成就したら、お返ししていく。いわば、そこんところが、出来ていったら、次の修行へ。そして、現段階の所にある訳なんですね。
表行よりは心行せよと仰るけれども、やはり一つ、表行の一つも、本気で、例えば、おかげを受けられた、お徳を受けられた方達が、あぁいう修行をして、お徳を受けられたという話を聞いたら、聞き伝えてです。私共は、そういう修行の稽古をさせて頂く。日々、例えば、これは、公子さんで言うなら、朝、早起きの稽古をしよります。一生懸命、ここの御用を、もう何年間続けております。これは、全部、ほんなら、修行の稽古をさせて頂いておる。そういう修行の稽古が出来る時に、何時までも、そういう稽古をさせなさる筈がない。そうでしょうが。次の、まだ修行は、一生ですから、限りなくありましょうけれども、もっと本当な意味においての、いわば、修行が求められることでありましょうがね。お互い、日々、信心の、この、信心修行、いわゆる、修行の稽古をさせて頂く。信心に修行は付き物、ね。その修行に、お徳が付く。そのお徳に現れてくるおかげでなからなければ、本当のおかげじゃないと言われております。お互い一つ、修行の稽古を、このような修行の稽古を、皆さんなさっておられる訳です。ですから、果たしてその、それが修業の稽古になっておるかという風に頂きなおしながら、修行させていただく。これは、私共だけではない。ご縁を頂いておられる御霊様方でも、やはり、色々と、工夫をなさって、修行を積んでくださってある。しかもそれは、自分自身の御霊の助かりだけではない。遺族の者の上にもです。いわゆる、家のため、身のためにもです。御霊ながらの働きが出来られるためのご修行に取り組んでおられる姿を、今日、私、拝ませて頂いたんだと思うんですよね。
修行は、大変、大事な事です。だから、その修行の稽古をしておるんだと。しかも、その修行の稽古ですから、ね。朝、お水ならお水を頂いておるという事が、一生続くといったようなものでは、あってはならない。むしろ、それは、卒業していかなきゃならない。そして、より素晴らしい修行にね。いわば、表行の限りを尽くさせていただく事によって、確かに、神様に通う、交流する一つの、これはて立てなんです、修行と言うものは。ね。ですから、そういう修行を、本気でさせて頂きましてね。神様と交流する。そこからです、いわゆる、形に現れた行ではない。心の行、いわゆる、表行より、心行をせよと仰る。本当に、心の中に頂く修行の稽古を、本気でさせていただかなければならない。今日、改めて、修行の稽古という事を頂いてね、はぁ有難い信心の稽古。まぁよう煎じ詰めて行きよると、同じのようですけれども、信心の稽古、信心の稽古で、一つも修行になっていないような、お参りであったり、信心であったりが続いておったんでは、つまりませんものね。修行の稽古が積み上げられてこそ、始めて、私は、信心が信心になってくると思うんですよ。どうぞ。